悩める若手大学職員のブログ

今後のキャリアプランに悩む大学職員です。日々感じたことや読んだ文献を記事にします。更新は不定期です。

書評:佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』&佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』を読んで

昨年11月・12月、佐藤先生編著の『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』(の序章・1章・2章・終章)と『迷走する大学改革』を読みました。この本は姉妹本であり、著者の佐藤郁哉先生は2019年11月の大学教育学会でもこれらの本の内容をテーマにお話しされています。理解が不十分なところもあるので、書評というよりは読書感想文になりそうな気もしますが…印象に残ったところや考えたことなどを少し書き残そうと思います。

 

佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』京都大学出学術版会】

第1章 「大学性悪説」による問題構築という〈問題〉(苅谷剛彦

この章は、大学改革の前提とされてきた「大学性悪説」を問い直し→日本の教育政策の癖である「エセ演繹型の政策思考」を指摘→「徹底した帰納的思考による大学教育の見直し」を提唱、という流れで進められており、これまでの大学改革の流れやフォーマットを捉えなおす上で非常にためになる章でした。

特に印象に残ったの最後に提唱されていた「帰納的思考による大学教育の見直し」です。これまでの大学改革では「大きな理想から演繹的に改革目標を設定する」という思考の習性(クセ)があったことを批判的に捉え、それを解毒するために、現場から・事例から帰納的に大学教育が抱えている問題点を検証することが必要である、という考えです。確かに大学教育では、DP→CP→個々の授業という流れに代表されるように、大きな目標を細分化・分解し、より小さな次元に落とし込んでいく(演繹型のような)思考の型が存在しています。私見にはなりますが、大学改革の波は、まず3つのポリシーや教学マネジメントなどの概念が中教審の答申などで頻出し、それらが大学・教学の管理者層に浸透し、大学が組織としてその概念を実現するために動き始め、次に学部・学科といった組織で共有され、最終的に授業などに降りていく、という広がり方をすることが多いように感じます。私自身、上から大きな概念が降ってきて、それを少しづつ噛み砕き、明確にし、現場に下ろしていくという流れを当然のものだと思っているところもあったので「帰納的思考による大学教育の見直し」という考え方にはハッっとさせられました。また、帰納による大学教育の見直しのために質的研究・質的調査の重要性が述べられていたのも印象的でした。

少し疑問に思ったところとしては筆者の以下のような指摘が挙げられます。

大学教育を含め、昨今流行の「アクティブ・ラーニング」は、一見具体的な手段の提示のように見えるが、そうではない。・・・(中略)・・・学習の外形がアクティブであることと、探究的能力が育成されることとの間に、明確な因果関係が想定できないのである。(98頁)

この指摘について、特に参考文献等が示されていないことが気になりました。教育分野では因果関係を証明することは確かに難しいですが、ここまで簡単に否定できるのか少し疑問に思いました。この点については、最近アクティブ・ラーニングの本(アクティブ・ラーニングとは何か - 岩波書店)も出たようなので、少しずつ勉強していきたいと思います。


第2章 日本の大学は、なぜ変わらないのか?変われないのか?(川島太津夫)

この章では、これまでの大学改革の流れを整理し、大学改革が進まない理由(部分的で継ぎ接ぎだらけな改革、大学のサイロ構造…)を論じています。

この章で良かったのは、大綱化以後の答申等を整理している点です。特に「平成の大学改革の流れ」と題された表では、1991年以降の数多くある答申とそこでの主な提言が整理されており、大学改革の流れについての理解を助けてくれます(川嶋先生はベネッセの学生調査報告書でも答申の整理表を載せており、この表はその最新版・更新版的な位置付けになるのでしょう)。この表は、大学改革で使われる言葉がどのタイミングで重要性を増したのか、影響力を持つようになったのかをつかむ手がかりにもなるため「1991年以後の中教審答申の目次」のような使い方ができます。大学教育関係で卒論・修論を書く学生さんにも是非参考にして欲しいです。

もう一つ、印象に残った箇所として「大学教員のアイデンティティ」についての指摘が挙げられます。

さらに、大学教員のアイデンティティ帰属意識)は、給与を得ている勤務先の大学よりも所属する学会に向いていることが多い。そのため、「教育は本来組織的な取り組みである(べき)」と言われても、なかなか大学教員の琴線に触れることはない。(152頁)

このような指摘について、現役の大学教員の方や大学院等で研究に取り組んだ経験のある方の中には、共感できる方も多いのではないでしょうか。私も大学院(修士)にいたことがあるのでこの感覚についてはある種「当たり前」なことであると考えていました。しかし、大学職員として働く中で、大学教員が持っている(可能性が高い)この意識をあまり理解していない(想定していない)職員の方が多いのではないかと感じることもあります。この点についてはまた機会があれば記事にしたいと思います。


終章 蒙昧主義的教育行政を越えて(佐藤郁哉

この章では、大学がこれまでしてきた脱連結と被植民地化の対応、PDCA化運動についての「大学の「症状」を見極められていない」という指摘、これから目指されるべき「確実な理論とたしかな実証的根拠にもとづいて身の丈に合った明確な目標を定め、また、その目標の具体的な実現方策について論理的かつ明晰な文章で説明する」という方向性など、勉強になる概念や指摘が多々ありました。その一方で気になる点もありました。それは、この章の最後に提案されている「禁止用語のすヽめ」です。これは、PDCAやKPI、EBPM、アクティブ・ラーニングなどの用語を禁止用語にするというもので、こういった言葉をより平易な言葉で言い換えてみることで、その内容について深く掘り下げて考えてみることができるそうです。この言い換えの効果について以下のように述べられています。

実際、PDCAやEBPMあるいはアクティブ・ラーニングなどの便利な言葉を使用禁止にし、それを平易な言葉で置き換えてみることによって、行政機関や大学の関係者は自分自身の言葉による表現を目指さざるを得なくなる。それによって、その多くは出自すら明らかではない借り物の言葉の呪縛から解放されてより自由な観点から物事について考えられるようになる。(391頁)

個人的にはこれはあまりに楽観的な考えすぎるのではないかと思います(佐藤先生も本気で言っているわけではないと思いますが)。PDCAやKPIについて、本当に改革のための深い思考を妨げているのか疑問は残りますし、それらの言葉の「罪」だけでなく「功」についても検討する必要はあります。あと、「アクティブ・ラーニング」も禁止用語に入っていましたが、アクティブ・ラーニングについての批判はこの章ではほとんどなされておらず、「禁止用語のすヽめ」の段落で急に出てきた点にも違和感を感じました。

 

佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』筑摩書房

続いては新書で出た佐藤(2019)です。箇条書きになりますが、印象に残った記述や疑問点は以下のとおりです。(→部分は、私の意見・疑問点です)

・FD、GPA、PDCA、AL、DP・CP・AP、EBPM、などが現場における混乱と困惑を増幅させてきた用語として挙げられている

10個以上の用語が批判すべき対象の例として挙げられているが、本書で実際に取り上げられたのはその半分以下。カタカナ用語だからといって勢いで批判してしまっている感が否めない。

・日本のシラバス(和風シラバス)について「偽物」であるとかなり批判的な意見

シラバス導入の経緯や歴史、米国のシラバスの偽物であること、シラバスの作成が教員の負担になっていることついては詳しく書かれているが、教育におけるシラバスの意義や効果、つまりシラバスが実際にどのような効果を持つのかについては検討が不十分(そこが狙いではないため仕方ない点もありますが…)。かなりの紙幅を割いて和風シラバスを批判しているにもかかわらず、学生にとってシラバスがどのような意味を持つのかについて実証的に何かを明らかにしているわけでもなく、実際のシラバスで求められる基準一つ一つについてその意義を検討しているわけでもないので、個人的には勿体無い印象。ただ、今後、新しい概念が日本に導入された際に大学界が陥るであろう問題を予想するうえで、このような検討は必要ではあるし参考になる。

・「大学解体」のユージュアル・サスペクツの列挙

→大学改革において「企業が余計なことを…」「金を寄越さない〇〇省が悪い」「〇〇産業がまた金儲けを…」といった批判がなされますが、様々な組織や立場について、大学改革に対してどのような「罪状」があるのかをリストアップしてくれていました。面白いです。

・東大調査についての指摘

→グラフの使い方、調査のあり方について鋭い指摘。教育社会学分野だと社会調査として問題がある調査が行われることも多いので、社会調査の専門家からのこのような指摘は真摯に受け取るべき。私自身も心に留めておきたい。

・「和風シラバスやFDが短絡的に導入されてきた」という指摘

→本書であまり触れられてこなかったFDがここにきて急に槍玉に挙げられたので違和感。佐藤先生はFDがお嫌いなのでしょうか。

 

【まとめ】 

長くなったので最後にまとめを…

色々書いてきましたが、この2冊は、金を出さない文科省、本気で改革しない&できない大学、大学教員が抱える負担など、大学改革の抱える問題を改めて明確に指摘してくれるものであり、大学関係者の再認識にとって必要な本だと思います。特に、読んでいる最中は、自分の中にある大学改革への嫌悪感・反感を気持ちよく煽ってくれるし、反大学改革の姿勢を後押ししてくれると感じました。ただ、高等教育について少しずつ勉強している自分にとっては違和感を感じる記述も多くありました。この2冊を読む際は注意が必要です。これらは大学改革そのものや改革が進まない体制を問い直す本であり、「実際の教育改革が無駄である」とか「FDやIRといった取り組みをしなくていい」と主張している(またはそういった主張を後押しする)本でないということを意識して読む必要があります。

大学改革を進める派閥が一枚岩ではないように、大学改革に反対する派閥も一枚岩ではありません。自分自身の抱く大学改革への違和感や批判は、大学改革のどこに焦点が当たっていて、どこまでの範囲で、自分はどういう立場にいるのか、考え直させてくれる本でした。また、自分の大学観を問い直すと同時に、改めて、大学教育は本当に昔より良く(もしくは酷く)なっているのか? 学生の量や質が大きく変わってはいるが、教育の方法や学生に学ばせる内容の検討などは今の方が良くなっているのではないか?などといった疑問も湧いてきました。 

色々と書いてきましたが、買ってよかった、読んでよかったと思える2冊でしたし、これから読み返す機会も多々あると思います。機会があればこの本を題材に高等教育を研究している大学院生の方々と読書会をしてみたいです。

 

参考文献

佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』京都大学出学術版会

佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』筑摩書房