悩める若手大学職員のブログ

今後のキャリアプランに悩む大学職員です。日々感じたことや読んだ文献を記事にします。更新は不定期です。

感想:本田由紀(2020)『教育は何を評価してきたのか』岩波書店

本田先生の『教育は何を評価してきたのか』(の第1章、第2章、終章)を読みました。目次は以下のとおりです。

第1章 日本社会の現状

第2章 言葉の磁場

第3章 画一化と序列かの萌芽

第4章 「能力による支配」

第5章 ハイパー・メリトクラシーへの道

第6章 復活する教化

終章  出口を探す 

この本は「能力・資質・態度という言葉に注目し、戦前から現在までの日本の教育言説を分析することで、格差と不安に満ちた社会構造から脱却する道筋を示す」ことを目的としています。(https://www.iwanami.co.jp/book/b498677.html

まだ全ての章を読み終えてはいませんので、以下は既読部分についての感想&メモ(ぶつ切りですが…)になります。

【第1章 日本社会の現状】

・「異様に高い一般的スキル、それが経済の活力にも社会の平等化にもつながっていない異常さ、そして人々の自己否定や不安の異常なまでの濃厚さ」(19頁)という日本の現状

→自分自身の将来に対する認識とも近いものではあるが、改めてデータをもとに示されるとなかなか厳しい…。

・本書で扱われる概念:垂直型序列化、日本型メリトクラシー、ハイパー・メリトクラシー、水平的画一化、ハイパー教化、水平的多様化

 →抽象的な概念だが本文で整理されていたので理解しやすかった。(水平的多様化については若干説明が少なかったが、「序列のない横並びの多様性」みたいなものだと理解)

・本書で提示したい仮説:日本社会の現状は「日本において、人間の性質を垂直的序列化および水平的画一化によって捉える見方が浸透してしまっていることからかなりの程度説明できる」(23頁)

【第2章 言葉の磁場】

・「能力」という言葉が、「実は日本の特質を把握する目を曇らせると同時に、むしろ垂直的序列化を促進すらしてしまう磁場のような作用を含み込んでいた/いるのではないか」(33頁)。

メリトクラシーは「能力主義」と訳されるが、この「「メリト」は一般的な語義としても「能力」とイコールではない」(39頁)。また、日本の「能力主義」の考え方は諸外国とズレがある。

→「メリトクラシー」概念について整理されており、勉強になった。

・教育社会学では「「能力」が社会的に「あることにされている」という事態を「「能力」の社会的構成」と呼んできた」。

→論理としてはどこかで聞いたこともある気がするが、「「能力」の社会的構成」という用語は知らなかった。

【終章 出口を探す】

・筆者の提案:高校の学科を多様化し、「多様化した高校学科への入学者選抜において・・・(中略)・・・高校学科への専門を学ぶために求められる具体的な知識・スキルおよび志望の明確さに即して選抜を行う」(218頁)

→高校入学の段階で14、15歳くらいの生徒たちが明確に志望を決めるのは難しいのでは。結局、自分の「志望」を決める時期を遅らせるよう普通科に進学する生徒が多く、現状とあまり変わらないのでは?

 

結び:大学での「能力」

大学における「能力」を考えてみると、一番先に思いつくのは、DPで示される「学生が身に付けるべき能力」でしょうか。DPについては、ディプロマサプリメント等でその成果を測り他の学生と比較、ひいては就職活動でも活用しようとする動きもあります。しかし、本書で提示される仮説を踏まえると、DPで設定されている各種能力に対する認識そのものや学生が「身に付けるべき」という考え方、DPを用いた学生の比較(序列化?)について、色々と考え直す必要がある気がしてきました(個人的には、測れる能力は測って可視化してしまっていいじゃないかと思っていますが・・・)。

本書で示される「能力」についての見方・考え方は、「学習成果の可視化」という大きな流れに溺れないよう、客観的に「大学で学生が身に付ける「能力」」を見つめ直す視座になるかもしれません。本書を読んで、「能力」という言葉を使うのに慎重になろうと思いました。未読部分も近いうちにちゃんと読んでおきたいです。また、高等教育をテーマにした本だけでなく、周辺の分野(教育学、教育社会学等)から学べることが多いと改めて感じることができた一冊でした。

感想:岩井洋(2020)『大学論の誤解と幻想』弘文堂

お盆休みに入りましたが、帰省もできず、外にも遊びに行けないので、勉強用のデスク、椅子、チェアマットを購入し(合計35000円)、積読を崩しはじめました。

一冊名は 岩井洋(2020)『大学論の誤解と幻想』弘文堂 です。目次は以下のとおり。

 序章  大学論を語る前に

 第一章 アクティブ・ラーニングの誤解と幻想

 第二章 グローバル人材と英語幻想

 第三章 もうすぐ絶滅するという文系学部について

 第四章 改革は静かに、そして合理的に失敗する

 第五章 大学経営の虚像と実像

 第六章 実践的・大学教育論

 終章  大学教育はどこへいくのか

タイトルから分かるように、世間で語られる「大学」についての議論に含まれる様々な誤解や幻想を考察し、それを踏まえた筆者の大学論も紹介されています。

この本のよかった点は「今までどこかでは絶対聞いたことがあるけれど、その出典は忘れてしまった or どういうロジックでその主張がなされたのかも忘れてしまった」という言説やデータを整理してくれていた点です。

大学過剰論、大学無用論、大学不要論、ティーチングからラーニングへの転換、ALについて、ラーニング・ピラミッドの誤用、G型L型大学、文系学部不要論など、自分が忘れかけていたり議論や主張について、ざっくりと復習することができました。

筆者が第六章で提案する「本来の意味でのセメスター制」(学生が一学期に履修する科目を5〜6科目に減らし、一科目ごとの比重を大きくする)は、学会の雑談や私の職場でもたまに話に挙がりますし、実際そのアイデアが頭にある大学幹部は多いのではないでしょうか。しかし、既存の学部で「本来の意味でのセメスター制」を実際に導入しようとすると、カリキュラムの見直しをはじめとする実務的な仕事はもちろん、専門性の異なる教員間の泥臭い調整もあり、実現は難しいでしょう。

ただし、「学位プログラム」などのある程度柔軟性のある仕組みを利用すれば、「本来の意味でのセメスター制」を実現し、そのプログラムが優れた成果を挙げることで、他大学も影響を受け「本来の意味でのセメスター制」の導入を目指す…というシナリオもあり得るのでしょうか。

この本は、大学の事情やここ数年の大学に関わる議論を知っている大学関係者にとっては目新しい情報が少ないかもしれません。一方で、企業の方々や高校生・大学生の子どもを持つ親御さんなど、大学と距離はあるが大学に対して思うところのあるであろう方々には、誤解や幻想に惑わされずに大学を知ってもらうという意味で、ぜひ読んでいただきたい本でした。

書評:佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』&佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』を読んで

昨年11月・12月、佐藤先生編著の『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』(の序章・1章・2章・終章)と『迷走する大学改革』を読みました。この本は姉妹本であり、著者の佐藤郁哉先生は2019年11月の大学教育学会でもこれらの本の内容をテーマにお話しされています。理解が不十分なところもあるので、書評というよりは読書感想文になりそうな気もしますが…印象に残ったところや考えたことなどを少し書き残そうと思います。

 

佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』京都大学出学術版会】

第1章 「大学性悪説」による問題構築という〈問題〉(苅谷剛彦

この章は、大学改革の前提とされてきた「大学性悪説」を問い直し→日本の教育政策の癖である「エセ演繹型の政策思考」を指摘→「徹底した帰納的思考による大学教育の見直し」を提唱、という流れで進められており、これまでの大学改革の流れやフォーマットを捉えなおす上で非常にためになる章でした。

特に印象に残ったの最後に提唱されていた「帰納的思考による大学教育の見直し」です。これまでの大学改革では「大きな理想から演繹的に改革目標を設定する」という思考の習性(クセ)があったことを批判的に捉え、それを解毒するために、現場から・事例から帰納的に大学教育が抱えている問題点を検証することが必要である、という考えです。確かに大学教育では、DP→CP→個々の授業という流れに代表されるように、大きな目標を細分化・分解し、より小さな次元に落とし込んでいく(演繹型のような)思考の型が存在しています。私見にはなりますが、大学改革の波は、まず3つのポリシーや教学マネジメントなどの概念が中教審の答申などで頻出し、それらが大学・教学の管理者層に浸透し、大学が組織としてその概念を実現するために動き始め、次に学部・学科といった組織で共有され、最終的に授業などに降りていく、という広がり方をすることが多いように感じます。私自身、上から大きな概念が降ってきて、それを少しづつ噛み砕き、明確にし、現場に下ろしていくという流れを当然のものだと思っているところもあったので「帰納的思考による大学教育の見直し」という考え方にはハッっとさせられました。また、帰納による大学教育の見直しのために質的研究・質的調査の重要性が述べられていたのも印象的でした。

少し疑問に思ったところとしては筆者の以下のような指摘が挙げられます。

大学教育を含め、昨今流行の「アクティブ・ラーニング」は、一見具体的な手段の提示のように見えるが、そうではない。・・・(中略)・・・学習の外形がアクティブであることと、探究的能力が育成されることとの間に、明確な因果関係が想定できないのである。(98頁)

この指摘について、特に参考文献等が示されていないことが気になりました。教育分野では因果関係を証明することは確かに難しいですが、ここまで簡単に否定できるのか少し疑問に思いました。この点については、最近アクティブ・ラーニングの本(アクティブ・ラーニングとは何か - 岩波書店)も出たようなので、少しずつ勉強していきたいと思います。


第2章 日本の大学は、なぜ変わらないのか?変われないのか?(川島太津夫)

この章では、これまでの大学改革の流れを整理し、大学改革が進まない理由(部分的で継ぎ接ぎだらけな改革、大学のサイロ構造…)を論じています。

この章で良かったのは、大綱化以後の答申等を整理している点です。特に「平成の大学改革の流れ」と題された表では、1991年以降の数多くある答申とそこでの主な提言が整理されており、大学改革の流れについての理解を助けてくれます(川嶋先生はベネッセの学生調査報告書でも答申の整理表を載せており、この表はその最新版・更新版的な位置付けになるのでしょう)。この表は、大学改革で使われる言葉がどのタイミングで重要性を増したのか、影響力を持つようになったのかをつかむ手がかりにもなるため「1991年以後の中教審答申の目次」のような使い方ができます。大学教育関係で卒論・修論を書く学生さんにも是非参考にして欲しいです。

もう一つ、印象に残った箇所として「大学教員のアイデンティティ」についての指摘が挙げられます。

さらに、大学教員のアイデンティティ帰属意識)は、給与を得ている勤務先の大学よりも所属する学会に向いていることが多い。そのため、「教育は本来組織的な取り組みである(べき)」と言われても、なかなか大学教員の琴線に触れることはない。(152頁)

このような指摘について、現役の大学教員の方や大学院等で研究に取り組んだ経験のある方の中には、共感できる方も多いのではないでしょうか。私も大学院(修士)にいたことがあるのでこの感覚についてはある種「当たり前」なことであると考えていました。しかし、大学職員として働く中で、大学教員が持っている(可能性が高い)この意識をあまり理解していない(想定していない)職員の方が多いのではないかと感じることもあります。この点についてはまた機会があれば記事にしたいと思います。


終章 蒙昧主義的教育行政を越えて(佐藤郁哉

この章では、大学がこれまでしてきた脱連結と被植民地化の対応、PDCA化運動についての「大学の「症状」を見極められていない」という指摘、これから目指されるべき「確実な理論とたしかな実証的根拠にもとづいて身の丈に合った明確な目標を定め、また、その目標の具体的な実現方策について論理的かつ明晰な文章で説明する」という方向性など、勉強になる概念や指摘が多々ありました。その一方で気になる点もありました。それは、この章の最後に提案されている「禁止用語のすヽめ」です。これは、PDCAやKPI、EBPM、アクティブ・ラーニングなどの用語を禁止用語にするというもので、こういった言葉をより平易な言葉で言い換えてみることで、その内容について深く掘り下げて考えてみることができるそうです。この言い換えの効果について以下のように述べられています。

実際、PDCAやEBPMあるいはアクティブ・ラーニングなどの便利な言葉を使用禁止にし、それを平易な言葉で置き換えてみることによって、行政機関や大学の関係者は自分自身の言葉による表現を目指さざるを得なくなる。それによって、その多くは出自すら明らかではない借り物の言葉の呪縛から解放されてより自由な観点から物事について考えられるようになる。(391頁)

個人的にはこれはあまりに楽観的な考えすぎるのではないかと思います(佐藤先生も本気で言っているわけではないと思いますが)。PDCAやKPIについて、本当に改革のための深い思考を妨げているのか疑問は残りますし、それらの言葉の「罪」だけでなく「功」についても検討する必要はあります。あと、「アクティブ・ラーニング」も禁止用語に入っていましたが、アクティブ・ラーニングについての批判はこの章ではほとんどなされておらず、「禁止用語のすヽめ」の段落で急に出てきた点にも違和感を感じました。

 

佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』筑摩書房

続いては新書で出た佐藤(2019)です。箇条書きになりますが、印象に残った記述や疑問点は以下のとおりです。(→部分は、私の意見・疑問点です)

・FD、GPA、PDCA、AL、DP・CP・AP、EBPM、などが現場における混乱と困惑を増幅させてきた用語として挙げられている

10個以上の用語が批判すべき対象の例として挙げられているが、本書で実際に取り上げられたのはその半分以下。カタカナ用語だからといって勢いで批判してしまっている感が否めない。

・日本のシラバス(和風シラバス)について「偽物」であるとかなり批判的な意見

シラバス導入の経緯や歴史、米国のシラバスの偽物であること、シラバスの作成が教員の負担になっていることついては詳しく書かれているが、教育におけるシラバスの意義や効果、つまりシラバスが実際にどのような効果を持つのかについては検討が不十分(そこが狙いではないため仕方ない点もありますが…)。かなりの紙幅を割いて和風シラバスを批判しているにもかかわらず、学生にとってシラバスがどのような意味を持つのかについて実証的に何かを明らかにしているわけでもなく、実際のシラバスで求められる基準一つ一つについてその意義を検討しているわけでもないので、個人的には勿体無い印象。ただ、今後、新しい概念が日本に導入された際に大学界が陥るであろう問題を予想するうえで、このような検討は必要ではあるし参考になる。

・「大学解体」のユージュアル・サスペクツの列挙

→大学改革において「企業が余計なことを…」「金を寄越さない〇〇省が悪い」「〇〇産業がまた金儲けを…」といった批判がなされますが、様々な組織や立場について、大学改革に対してどのような「罪状」があるのかをリストアップしてくれていました。面白いです。

・東大調査についての指摘

→グラフの使い方、調査のあり方について鋭い指摘。教育社会学分野だと社会調査として問題がある調査が行われることも多いので、社会調査の専門家からのこのような指摘は真摯に受け取るべき。私自身も心に留めておきたい。

・「和風シラバスやFDが短絡的に導入されてきた」という指摘

→本書であまり触れられてこなかったFDがここにきて急に槍玉に挙げられたので違和感。佐藤先生はFDがお嫌いなのでしょうか。

 

【まとめ】 

長くなったので最後にまとめを…

色々書いてきましたが、この2冊は、金を出さない文科省、本気で改革しない&できない大学、大学教員が抱える負担など、大学改革の抱える問題を改めて明確に指摘してくれるものであり、大学関係者の再認識にとって必要な本だと思います。特に、読んでいる最中は、自分の中にある大学改革への嫌悪感・反感を気持ちよく煽ってくれるし、反大学改革の姿勢を後押ししてくれると感じました。ただ、高等教育について少しずつ勉強している自分にとっては違和感を感じる記述も多くありました。この2冊を読む際は注意が必要です。これらは大学改革そのものや改革が進まない体制を問い直す本であり、「実際の教育改革が無駄である」とか「FDやIRといった取り組みをしなくていい」と主張している(またはそういった主張を後押しする)本でないということを意識して読む必要があります。

大学改革を進める派閥が一枚岩ではないように、大学改革に反対する派閥も一枚岩ではありません。自分自身の抱く大学改革への違和感や批判は、大学改革のどこに焦点が当たっていて、どこまでの範囲で、自分はどういう立場にいるのか、考え直させてくれる本でした。また、自分の大学観を問い直すと同時に、改めて、大学教育は本当に昔より良く(もしくは酷く)なっているのか? 学生の量や質が大きく変わってはいるが、教育の方法や学生に学ばせる内容の検討などは今の方が良くなっているのではないか?などといった疑問も湧いてきました。 

色々と書いてきましたが、買ってよかった、読んでよかったと思える2冊でしたし、これから読み返す機会も多々あると思います。機会があればこの本を題材に高等教育を研究している大学院生の方々と読書会をしてみたいです。

 

参考文献

佐藤郁哉編(2018)『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』京都大学出学術版会

佐藤郁哉(2019)『迷走する大学改革』筑摩書房

学会に行ってきました:大学教育学会2019年度課題研究集会

2019年度11月30日・12月1日に開催の大学教育学会2019年度課題研究集会に参加してきました(参加といっても、発表者ではなく完全なる聴き手としてですが…)。

今回は、学会で聞いたこと・学んだこと・考えたことを簡単にまとめたいと思います。

 

ポスターセッション

会場に到着した時間が遅かったこともあり、しっかりと見られたポスターは5本くらいでしたが、特に面白いと感じたのは以下の2本です。

①ゼミの実態調査

・概要と感想

今回の発表はゼミナール教育についての量的な実態調査をまとめたものでした。ゼミナール教育は日本の大学教育の数少ない強みとして言及されることがある一方で、その実態に関する研究はそれほど多くない教育形態でもあります。実態調査なので単純な度数や割合を把握するにとどまっていましたが、今後もさらなる調査を進めるそうなので、とても楽しみです。

・考えたこと

ゼミ(演習)での教育は教員による研究指導がメインで、各大学で行われるFDではあまり扱われないコンテンツだと感じています。ゼミナール教育の実態を明らかにしていくことは、ゼミでの教育方法を開発することにもつながりますし、今後日本のゼミ教育がどういう捉えられ方をされて、どんな議論が起こるのかも気になります。

これまでの高等教育研究では、AL、IR、FD、SDなど海外(主にアメリカ)のものを有り難がる傾向にあるので、その反動として、日本に昔からある「ゼミナール教育」を再評価する流れが近い将来必ず来ると個人的には予想しています。

②大学院生へのプレFD

・概要と感想

大学院生に授業としてプレFD(講義で活きる教授法が中心)を行なっているという発表内容でした。後述のとおり大学教員に「教育」の知識・技術を身につける機会を提供する必要があると考えていたので、素晴らしい取り組みだと思いながら発表を聞いていました。

・考えたこと

発表者の方ともお話ししましたが、講義に活きる教授法のFDだけでなく、ゼミなどの少人数教育で活かせるような知識・スキルについてもプレFDの中で教えられると良いと考えています。

教務課の職員として先生方にゼミ生の修学指導をお願いすることがありますが、「研究のプロではあるけれど教育のプロではない先生方に、問題を抱える学生の指導をしてほしいと頼むのはおかしいのでは…?」と考えることが度々あります。一部の大学(ex.早稲田大学同志社大学など)のように組織的な学習支援体制が整っていればそこを紹介すればいいのですが、そんな大学は数える程度しかありません。

不本意入学生、配慮が必要な学生、基礎学力が低い学生など多様な学生がいる中で学生の指導に苦慮する先生方も多いと思います。そんな先生方のためのFDの機会を提供するのも私たちの仕事なのではないかと考えるようになりました。

 

開催校シンポジウム

高等教育研究者、企業人、文科省官僚、音大の学長、というまとまりのないメンバーがパネリストとして話し合うので、途中までは「まとまらないのでは…?」と思っていましたが、司会の先生の立ち回りもあってかそこまで取っ散らかることがなかったので、少し安心しました。

記憶に残っている発言・提案としては

・授業は先生の持ち物ではない。教育課程の中に位置付けられるものであり、学生のものである。

・日本の大学の失敗だけでなく、成功体験についても分析が進められるべきではないか。

などが挙げられます。

これらについてはまた機会があれば自分の考えをまとめられればと思っています。

 

課題研究シンポジウムⅢ

エキスパートジャッジメントの話でした。何か書き記せるほど十分に理解はできなかったのですが、Assignment Charette (アサインメント・シャレット:大学教員が自身の講義の課題を持ち寄り、グループで互いにその課題を確認し、教育プログラム上妥当な課題となっているのかを検討する)という取り組みが印象に残りました(綴りと読みに自信がありません…)。この点ももう少し理解を深めてから記事にしたいと思います。

 

ほとんどがポスター発表の感想文ですが、以上が今回の学会の記録です。

学会に行くと色々なモチベーションが上がります。研究へのモチベーションも上がって「来年度の課題研究集会ではポスター発表をする予定です」と指導教員や兄弟子に言ってしまいました…。

あと学会では専門書を20%引きとかで買えるのも良いですよね。今回は斎藤先生の著書を購入しました。年末年始休暇の課題図書にしたいと思います。

www.toshindo-pub.com

以上、予想より長くなりましたが、学会記録でした。

 

ブログを始めました:自己紹介、ブログの目的

1. 自己紹介

ブログを始めたのでまずは自己紹介を…

本名は非公表ですが「おぬ氏」という名前でTwitterをやっています。

関西の大学で働いている20代半ばの若手大学職員で、現在(2019.11.23)の所属部署は教務部です。

これまでの経歴を簡単にまとめると

・東海地方の田舎で小・中・高校時代を過ごす

・京都のとある大学で学部・大学院(修士)を過ごす。

・その後、縁あって関西のとある私大で働くことになる。

といった感じです。

ちなみに大学院では高等教育を学び、研究し、修士論文ではIRっぽいことをやりました。 関心のある学問分野は教育社会学・高等教育論で、特にIR、教育政策、カリキュラムマネジメント、大学経営などに興味があります。

 

2. ブログの目的

このブログでは大学業界や高等教育研究について学んだことや考えたことを綴っていこうと思います。

ちなみにブログの1番の目的は私自身が学んだことのアウトプットです。日々、高等教育に関わる論文や本を読んではいるのですが、なかなかアウトプットの機会がありません。インプットしたことを自分の中に定着させるためにもブログ執筆を通してアウトプットしていきたいと思います。

ブログを読書ノート的に使っていこうと考えており、記事のほとんどが文献のレビューになる予定です。

大学職員への就職を目指し情報収集している方以外にとっては無益な記事になるかと思いますので、同じ興味・関心を持つ方々に暇つぶしとして読んでいただければと思います。

 

記事書くのって結構時間使いますね。

三日坊主にならないように頑張りたいと思います。